2016年6月12日

むかし見た芝居5―現代劇としての歌舞伎〈後篇〉(2005年12月南座「吉例顔見世興行」)



前回の記事に続いて2005年12月の南座「吉例顔見世興行」観劇ノートの後篇です。藤十郎の「曽根崎心中」に対する批評を試みました。当時、私は広末保の近世文学論の影響を強く受けており、近松物に関する見方が社会経済学派的でした。最近は、もう少し違った歌舞伎観を持っていますが、それでも世の中の大多数の人と比べれば、いまでも社会経済学派的です。そういう意味では、若いころに書いたこの文章は、生意気なんだけれども、基本的な認識の布置は現在でも変わっていないと思います。
2016年6月5日

むかし見た芝居4―現代劇としての歌舞伎〈前篇〉(2005年12月南座「吉例顔見世興行」)



今回再掲するのは、2005年12月に南座で見た「吉例顔見世興行」の感想です。三代目中村鴈治郎改め坂田藤十郎襲名披露公演でした。襲名狂言の相手役は、いまは亡き四代目中村雀右衛門です。大名跡の復活と襲名ということで、非常な興奮をもって見た芝居でした。そのため筆にも力が入り、前後篇の長文となっています。いまから考えると、雀右衛門を生で見ることのできたのは幸運なことでした。そして、翫雀がいやま四代目鴈治郎となり、雀右衛門の名跡も芝雀が襲ぐことになりました。時の流れははやい。同時に、いまなお健在の藤十郎は、やはり化け物のような役者だと心底感心します。

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