2016年6月12日

むかし見た芝居5―現代劇としての歌舞伎〈後篇〉(2005年12月南座「吉例顔見世興行」)



前回の記事に続いて2005年12月の南座「吉例顔見世興行」観劇ノートの後篇です。藤十郎の「曽根崎心中」に対する批評を試みました。当時、私は広末保の近世文学論の影響を強く受けており、近松物に関する見方が社会経済学派的でした。最近は、もう少し違った歌舞伎観を持っていますが、それでも世の中の大多数の人と比べれば、いまでも社会経済学派的です。そういう意味では、若いころに書いたこの文章は、生意気なんだけれども、基本的な認識の布置は現在でも変わっていないと思います。

現代劇としての歌舞伎〈後篇〉


続いて、いかにも歌舞伎的な皮肉な舞踊劇が二つである。

「文屋」は、六歌仙の一人である文屋康秀を色好みの公卿にし、小野小町の寝所を訪ねるという趣向の舞踊であるが、内容的にはまったく下賎かつ卑猥な振りである。つまり、高貴な公家に下卑た所作をやらせるという意味で、実に皮肉な演目だといえよう。なぜなら、あまり可笑しくすれば、公家の高貴さが失われるし、かといって、お高くとまっていたのでは、この踊りの面白さが出ない。そういう難しい踊りを、仁左衛門がどう演じるかが見物であったのがが、結論を言うと、これが素晴らしかった。

まず、文屋が官女たちに袴を引っ張られながらバタバタと登場するところから、勢いがある。恋問答での卑猥な所作とセリフも、照れずに堂々とやるところが仁左衛門の新しい魅力だ。それでいて、高貴さを失わず、ことに煙り富士のところは、匂い立つような色気を感じさせた。また、菊十郎、寿治郎、橘三郎、當十郎といったベテラン脇役が、官女として息の合った遣り取りを見せたところが、この舞台をいっそう引き立てた。小品であるが、本興行中の舞踊では、いちばん印象に残っている。

皮肉さといえば続く「京人形」も同様である。この舞踊劇の皮肉なところは、女形が扮する京人形が、男のような荒々しい振りと女らしい振りを変化させるところにある。つまり、本来、男である女形が、男っぽく振舞い、また急に女らしく振舞う。さらにその男っぽさもまた、普通のそれではなく、人形としての振るのだから、それは、二重三重の屈折を抱えた、なんとも皮肉な芸であり、これを上手く踊るには、独特の感覚、すなわち立役としての資質と女形としての資質ともに揃わなければならないのだ。その点で、当代菊五郎は、これに独特の感覚を持ち合わせている。

さて、それを今回は菊五郎が左甚五郎、菊之助の京人形という最近おなじみの組み合わせである。まず、菊之助の京人形はその姿形の美しさ、圧巻である。息をのむとはまさにこのことで、人形箱の蓋を開けて、菊之助の京人形が姿を現した瞬間、小屋中がため息をついた。肝心の踊りもメリハリがあり、男っぽさと人形らしさを同時に出すところでの振りも申し分ない。菊五郎の甚五郎は、さすがに余裕の演技で、いまさら言うべきことはない。芝雀の女房おとくは、愛嬌がある。この人は行儀のいい娘役ばかりではなく、こういった女房役が意外と良いということは、以前見た「魚屋宗五郎」での女房お浜の時から感じていた。松也の井筒姫は、とくにしどころの無い役だが、姿の良さは充分だ。ただ、声が甲高すぎる。この辺は、好みの分かれるところか。玉太郎の奴照平は、甚五郎に斬りかかるところが性急過ぎる。これではまるで闇討ちだ。遠慮せずに工夫すべきだろう。栗山大膳は菊市郎。最後の大工道具の立ち回りは、さすが菊五郎劇団と思わせる息のあった面白さ。馬鹿げた動きを真面目にする菊五郎が面白い。なお、劇中、一巴太夫の常磐津が耳に心地よかった。

さて、愈々昼の部の切は、恐らくこれからも山城屋の家の芸となるであろう「曽根崎心中」である。しかし、今回あらためてこの劇を観直して、これが単なる古典劇の焼き直しではなくまさに「現代劇」として作られているということに愕然とした。まずはその事について書く。

通常、「曽根崎心中」といえば「天満屋の場」が有名である。藤十郎の足を使った演技、女性主導の花道の引っ込み。そういったいかにも現代的な演出が、同時代の女性の共感を得たといわれている。だが、今回最も印象に残ったのは、その前の「生玉神社の場」である。恐らく、この劇の「現代劇」としての秘密は、ここにあると思う。なぜなら、生玉神社境内に登場するのは、お初、徳兵衛、九平次といった人物だけではなく、大勢の「群集」が登場するからである。恐らく、歌舞伎劇の中で、こういった「群集」を登場させたものは皆無なのではないか。というのも、「群集」の登場こそ、極めて近代的な出来事だからである。

さらにこの「群集」は、単なる傍観者ではない。徳兵衛が九平次に騙られ、逆に騙りの汚名を着せられるところで、「群集」は単なる傍観者を越えて、一つの加害者となる。無念に咽びながら花道を引っ込む徳兵衛に群集の一人が発した「騙りめが」の声こそ、社会的弱者に転落した一人の人間に対して「社会」というものが投げつけた止めの一撃なのだ。恐らく、この時に徳兵衛は既に社会的に殺されていたのだ。

社会的に抹殺された者が、自らの正当性を回復する手段、それは最早この「社会」からの完全な離脱しかない。それこそが「心中」という形態となって現れるのである。徳兵衛は、死ぬことによってのみ再生されるのである。そして、この再生の依代となったのが、お初なのだ。

近松の心中物が持つ批評性は、畢竟、封建社会の軋轢からの離脱としての理解される。だが、現代においては、この封建社会が事実上消滅している。人を心中へと向かわせる封建社会は消滅したが、かわりに、やはり人を自死へと追い込む群集の「社会」が現代には存在している。それに対する新たな批評として「曽根崎心中」という劇が機能しているという見方は、あまりに穿った見方であろうか。いずれにしても、この「曽根崎心中」という劇は、まさに単なる古典劇を超えて、「現代劇」として岐立しているのだと思う。そしてそれはやはり歌舞伎の可能性である。

この「現代劇」としての歌舞伎を見事に成立させたのが藤十郎だ。今回の興行でも、まずその若さが素晴らしい。徳兵衛と並んでも、あきらかに藤十郎のお初の方が若々しいのだから、その芸の力、畏るべし。しかも、このお初は決して古典の登場人物ではない。あきらかに現代女性として造形されている。しかも、劇が過度に暗くならないように、所々でチャリをまじえる余裕がある。例えば天満屋の場で、吊り行灯を扇で煽ぎ消すところなど、お初の必死さかえって可笑しみを誘う。翫雀の徳兵衛も車輪の活躍だ。この徳兵衛という役は、二代目鴈治郎が練りに練って創り上げた役である。それを、翫雀が情味溢れる演技で熱演する。

もう一人、車輪の活躍が今回抜擢された亀鶴の九平次である。やや贔屓の欲目かもしれないが、私は今後の上方歌舞伎の鍵を握る一人がこの亀鶴だと思っている。この人は、先代富十郎の孫にして初代鴈治郎の曾孫である。その眼差しには、どこか初代鴈治郎の面影がある。亀鶴の九平次は、まず徳兵衛との関係性が明確である点がいい。つまり、この二人は本来は友人であり、これもまた小心な市井人である点がよくでていた。とくに生玉神社の場での徳兵衛との遠慮のない遣り取り、天満屋の場で自らの騙りが発覚しての狼狽と足掻き、小手を利かした熱演でありながら、ドタバタにならないところが素質を感じさせる。

我當の平野屋久右衛門は、やはりその誠実味が最大の持ち味である。この手の役は、我當に最も相応しい。東蔵の天満屋惣兵衛は、九平次の悪態に対して、腹で不快に感じながら、あくまで紳士的に振舞い、尚且つ、お初を擁護するあたりの態度が見事である。寿治郎の下女お玉は、いかにも上方歌舞伎らしいチャリの連続で大受け。それでいて決してお初徳兵衛を食わない抑制が効いている。ベテラン脇役の味であるから、あえて特記したい。吉弥の手代茂兵衛も同様で、脇を固めた。

最後、曽根崎の森の場は、もはや批評は不要だ。小屋中が二人の道行に息をのむ。近松の文章が語られる中で、幻想的ともいえる情景が繰りひろげられた。それはまさに「現代劇」としての歌舞伎が、近松という稀有のプリズムを通して、覚醒した瞬間である。私は、やはりこの演目は歴史的名作であることを、再確認したのである。

今回の南座顔見世に関して、一部では地味な演目が多いという声があるそうである。だが、私はそうは思わなかった。どれもこれも、小品ではあるが一工夫された、上品かつ洒落た演目ばかりである。喩えるなら、これは京懐石のコースである(しかもメインには特上品が出る)。やはり、京都にはこういった洒落た興行が相応しい。そう感じたのである。
(南座、2005年12月15日所見、12月18日執筆)
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