本棚から懐かしい本が出てきました。犬丸治『市川海老蔵』と松島まり乃『歌舞伎修業―片岡愛之助の青春』です。10年以上前に発行されたものですが、再読するとじつに趣深い。これを読んだとき、旧ブログで感想を書いていたので、転載しておきます。当時から、私はこの二人の役者に対して特別の感情を持っていたことが分かります。
犬丸治『市川新之助論』、松島まり乃『歌舞伎修行―片岡愛之助の青春』
どういうわけか、私は新書が好きで、電車に乗ったりする際には、必ず新書(もしくは文庫)を読むようにしている。というわけで、最近読んだなかから、印象深かった二冊を紹介したい。
一冊目は、犬丸治『市川新之助論』(講談社現代新書、平成14年3月)である。市川新之助、すなわち現・海老蔵が、今後の歌舞伎界の鍵を握る一人でることは衆目の一致するところだろう。ただ、私個人は、なんとなく海老蔵の魅力を明確に言語化できないでいた。確かにその姿は抜群である。匂いたつような色気もある。荒事の宗家たる成田屋の御曹司に相応しい野趣もある。ただ、その野趣が、どこか粗暴さのように見えていたことも事実だ。
ところが、本書の著者である犬丸氏は、その粗暴さを、「正統な異端性」と整理している。すなわち、近代歌舞伎が「古風で、鷹揚な」という常套句をもって思考停止し、予定調和の上にあぐらをかいてしまった現状に対し、海老蔵の野趣が、歌舞伎本来が持っていた、まさに「傾く」という反社会性、いわば既存の社会秩序への反抗という本来の姿を快復させているというのである。これはなかなか興味深い見解である。
そして本書は、この犬丸氏の海老蔵観を手がかりに、一種の「弁天小僧論」「勧進帳論」「助六論」になっているのだが、こちらもなかなか面白かった。
もう一冊の、松島まり乃『歌舞伎修行―片岡愛之助の青春』(生活人新書、平成14年7月)は、前書とは、うって変わって1人の歌舞伎役者片岡愛之助の半生を描くノンフィクションである。だが、それはなかなか胸をうつものである。
周知の人も多いが、愛之助は門閥外から子役となり、見込まれて秀太郎の養子となった人である。本書では普通の鉄工所の息子が、ひょんなことから歌舞伎という世界に飛び込み、ひたむきに、ひたすらに役者の道に精進している姿が描かれている。
よく歌舞伎批判をする人の中に、役者の世襲制をもってその根拠にする人がいる。これは芸道の修行というものの本質を知らない半可通の意見といえるのだが、さらに歌舞伎界が本来持っている懐の深さを知らない意見でもある。というのは、実は歌舞伎の世界では古くから世襲以外に、養子あるいは名前養子や芸養子といった方法で、優れた才能を受け入れてきた歴史があることは、ちょっとこの世界を覗いてみればすぐに分かることである。そして、門閥外から入った愛之助が、今では名門松嶋屋のホープとなっていることが、その証左だ。そういうことを再確認させる意味でも、本書を興味深く読んだ。
ところで今回、この二冊を同時に取り上げたのには、少し理由がある。以前、ある雑誌の記事で読んだのだが(詳細は失念)、ある批評家がある時代の歌舞伎を描く際に、その基準となる役者がいるという説である。例えば、三宅周太郎と十五代目羽左衛門、戸板康二と六代目菊五郎、渡辺保と六代目歌右衛門といった具合だ。
こういうことは、批評家だけでなく、ファンにもあてはまると思う。つまり、自分の歌舞伎観劇歴が一人の役者の成長と重なって進むのである。その意味では、私のような若い歌舞伎ファンにとっては、まさに自分の時代の役者として、その成長を見守りたい人が、やはり海老蔵なのである。
ただ、私は関西人なので、どうしても上方の役者が気になる。そんなときに、眼に飛び込んできたのが愛之助の清新な舞台である。
そう考えれば、海老蔵と愛之助は、好対照である。片やその野趣あふれる才能の持ち主であり、片や清新な二枚目の芸風。片や名門成田屋の御曹司、片や門閥外から養子に入った名門松嶋屋のホープ。共に私の同時代の役者である。今後も、この二人の成長を観続けていきたいと思う。そして、海老蔵と愛之助が東西で共に岐立してこそ、新時代の歌舞伎が始まるのだと思う。
(2005年12月21日執筆)