本棚の整理をしていたら、懐かしい本が出てきました。10年ほど前に古本屋の均一台で投げ売りされていた『黙阿弥名作選』です。黙阿弥の作品は音読すると快感が増すのが特徴で、これを手に入れた当時は夜中に部屋でブツブツと音読していたことを思い出します。旧ブログでそのことを書いたこともを思い出したので、それを転載します。
まず読むべし―『黙阿弥名作選』
以前どこかで吉本隆明が、「歎異抄」を黙読しても意味がさっぱりわからなかったが、戦争中に音読したら、驚くほど文章の真意が理解できたという体験を書いているのを読んで非常に納得したことがある。確かに、文章を黙読するというのは、明治以降に生まれた文化的習慣で、少なくとも明治の10年代ぐらいまでは、本や新聞は音読するものであったことは、国文学者の前田愛氏も主張したところだ。
以来、私はときどき古典を中心に、音読をする。特にお気に入りは近松で、深夜に部屋で一人ブツブツと近松の心中物なんぞを声色まで使って音読している姿は、相当に無気味だろうとは思いつつ、つい熱中してしまうのである。
ところで最近、フラリと行きつけの古本屋の均一台を覗くと、河竹繁俊校訂『黙阿弥名作選』全5巻(創元社、昭和27~28年)の揃いを発見。一冊500円、つまり揃いで2500円だ。当然、即買いである。
ということで、現在もっぱら音読するのは黙阿弥物である。これが実に快感。近松の場合、文章のところどころに破調、乱調があり、それが音読する際にはアクセントとなり、面白いのだが、黙阿弥の場合は、完全に計算された語調で、本当に生理的快感を催す。郡司正勝博士もどこかで、「黙阿弥物は、まずは読むもの」だと書いていた記憶があるが、全く同感だ。脚本のモチーフや文芸上の思想も大事だが、やはり歌舞伎は、最初に楽しみ、快感がなければならないと思う。その意味で、今回手に入れた『黙阿弥名作選』は近松とならんで、いつでも座右において、気の向いたときに読みたい大好きな本である。(ちなみに、本書の巻頭に付された舞台写真や錦絵の口絵も、眺めていて実に楽しい。)
(2006年2月27日執筆)