2016年5月15日

むかし見た芝居2-小芝居の意義(2005年9月「第18回歌舞伎フォーラム公演 」)



むかし見た芝居の2回目として紹介するのは、2005年9月に国立文楽劇場で見た「第18回歌舞伎フォーラム公演」です。当時は無職だったこともあり、こういった若手の勉強会にも盛んに足を運んでいました。脇役の不在が関西歌舞伎の弱点であるという問題意識を強く持っていたことも思い出します。ただ、この問題はいまだに解決されていなくて、さらに深刻になっているのですから、なかなか歌舞伎の未来は厳しい。この舞台で中心を務めた中村又之助と中村京妙は、いまでは伝統歌舞伎保存会会員のベテラン脇役として活躍中なのが嬉しい。中村梅之は現在の中村梅乃です。演目の「松王下屋敷」は小芝居向けの愚劇とバカにされますが、実際に見たことのある人は少ないでしょう。そういった珍しい演目を見ることができたのも今となっては貴重な体験でした。あと、この芝居は当時に付き合っていた女性と一緒に見に行ったこともささやかな思い出です。


小芝居の意義


近年、表向き歌舞伎人気は盛況である。切符の売れ行きも上々であるし、大名跡の襲名が社会的関心事になったりする。一昔前の歌舞伎滅亡論など、どこ吹く風である。

ところがそういった表面的な活況をよそに、深刻になっているのが、手慣れの脇役が不足していることだ。並び大名や腰元、蕎麦屋の主人や番頭をさり気無く、それでいて軽妙にやるような脇役がいてこそ、はじめて芝居が締まるのだが、そういう隠れた名人が、決定的に不足している。これは歌舞伎にとって極めて深刻な問題である。

もちろん、そんなことは誰もが分っていることだから、国立劇場は研修生を集め、若手の育成をはかっており、それなりの成果をあげている。だが、そういった若手が、大きな役に挑戦し、修行する場が決定的に少ない。これがやはり問題である。以前なら、いわゆる「小芝居」と呼ばれる小劇場での公演が、腕を磨くいい機会だったのだが、いまはそんな小芝居が無くなってしまった。

そんな状況を打破すべく、「小芝居の復活」を目指して活動しているのが、日本伝統芸能振興会と舞台創造研究所による、歌舞伎フォーラム公演である。私は、今回は初めての歌舞伎フォーラム公演を鑑賞したのだが、まことに意義のある活動だと思った。

第一部は、「歌舞伎に親しむ」と題する解説。テーマは下座音楽と効果音である。案内役は中村又之助である。この人の解説は、以前に鑑賞教室でも聞いたのだが、あいかわらず滑らかな口跡の中に、偏痴機論を戒める内容があり、好感を持った。

さらに、観客を舞台に上げて効果音を実演させるのだが、希望者に挙手を求めると、驚いたことに隣に座っていた私の連れ合いが挙手。しかもチャッカリ当てられてしまうのだから、また驚いた。彼女、歌舞伎見物は初めてである。それが畏れ多くも国立文楽劇場の舞台に上がるのだから、女性の大胆さ、恐るべし。舞台では素人衆の雨団扇で、中村梅之が景清を実演。やはり、プロというのは恐ろしいもので、素人衆の雨団扇では、とんと調子が合っていない。

第二部は「櫓のお七」。中村京妙のお七は、黄八丈がよく似合う可憐さを持っている。さすがに京屋一門の勉強会で数々の大役を任されてきた人だけに、もっとも実力を感じさせた。中村梅之の下女お杉とのやりとりも、雪にことかけてヨン様まで登場する滑稽さで、客席を巻き込んだ演出がいかにも肩の凝らない小芝居らしい面白さ。また、上方の客はこういう笑いを今でも大事にする。梅之のお杉は、下駄が脱げるなどのトチリもあったが、まあ、ご愛嬌だろう。見せ場の人形振りは、無機質な感じがよく出ていた。特に腕の関節の使い方がきっちりとしており、行儀のいい楷書の踊りである。

又之助と澤村光紀の後見もがんばっている。ただ、後半やや息が合わなかったのか、時折お七が後見を引っ張るように見えてしまったのは残念だ。ただ、今回は初日ということなので、だんだん息も合ってくるだろう。生身に戻ってからの振りも、愛する吉三を思う気持ちがよく出ていた。太刀を持っての花道の引っ込みも、必死な感じがよく出ていたと思う。

第三部は、「増補・菅原伝授手習鑑」から「松王下屋敷」。これは珍しい狂言だ。歌舞伎では、大正五年八月に帝劇で初代吉右衛門が演じて以来の復活である。筋は、「寺子屋」の前日談で、松王下屋敷には菅丞相御台所が匿われている。そこに春藤玄蕃が上使として訪れ、武部源蔵の寺子屋に菅秀才が匿われているから、松王丸に首実検をする命を伝える。松王の女房千代は、討手の手にかかる前に菅秀才を救出することを意見するが、松王丸は御台所ともども時平公に差し出し、官位と栄華を手に入れるのだと冷笑する。愕然とした千代は、さんざん松王丸をなじり、そのような不忠の上での栄華ならいらぬと、息子小太郎と自害しようとする。そこに「女房待て」の一声。実はこれは松王丸が女房の心底を見極める窮余の一策だったのである。

松王丸の本心は、菅秀才を助け出し、お家を再興させることであった。そのために、菅秀才と面差しが似ている小太郎を、いざという時には身代わりにすべく、先に寺子屋に入門させる計略だと、松王丸は悲痛に語る。小太郎は「お主に忠義二親の孝行になるなれば、立派に死んでみせましょう」と健気に振舞う。その不憫さに、千代そして御台所は涙にくれ、松王丸も顔をそむける。こうして夫婦は悲嘆の涙の中に、我が子の死出の旅路の支度を整えるのだった。実に単純、それでいて哀愁おさえがたき家庭悲劇のメロドラマだ。いかにも小芝居には打って付けの演目といえよう。

さて、又之助の松王丸は、まず声がいい。この人は口跡が実に明瞭だ。動作も、きっちりと楷書の演技を心掛けており、好感が持てた。ただ、松王丸としては、やや線が細い。工夫が要るだろう。また、前半部分と後半部分との変化が弱い。よくいえば自然な演技なのだろうが、悪くいえば芸が無い。つまり、前半部分はもっと憎々しく、そして後半部分ではそれが豹変するという変化をもっとはっきりと見せるべきだろう。

つまり、「クサい」ぐらいがちょうどいいのである。誤解を恐れずに言うと、やはり小芝居はクサくないとだめだ。なぜなら、「クサい」というのは、実力がある証拠だからである。実力がないとクサい芝居は出来ない。そして、クサい演技の役者が、経験を積んで、自然な演技が出来るようになるのが、本当である。はじめから自然に見えるようでは、それは単に素の演技であって、芸が無いということに過ぎない(このへんを勘違いするから、最近のテレビドラマの俳優は、何をやっても同じようなキャラしか出来ないのである)。

同じことは、澤村光紀の春藤玄蕃にもいえる。もっと憎々しげに、もっと敵役らしい嫌らしさを出すべきだろう。梅之の御台所は、やや背が高すぎるような気がした。また、御台所としての高貴さも、まだまだである。いっそうの精進を願う。

京妙の千代は、実力充分。松王丸への意見事も、小太郎を引き寄せての愁嘆場、いずれも感情が溢れ出す好演技である。この人は、可憐な娘役だけではなく、こういった女房役も充分こなせることがよくわかった。

ところで小太郎は、公募による子役6人による日替わりである。この日は木下昂亮くん8歳。なかなか芸達者だ。千代に自害しようと懐剣を突きつけられて、手を合わせての「南ー無阿ー弥陀ー仏」も、しっかり言えている。ある意味、この子役が(当然のことだが)一番クサかった。だからこそ、大向うからの「木下!」の掛声が盛んに掛かるのである。やはり、小芝居はクサいぐらいがちょうどいいのである。

終盤、小太郎の身支度と寺子屋入門へと送り出す場面は、哀愁充分、観客の心を掴んでいる。思わず振返って父にすがりつく小太郎、悲痛な面持ちでそれを抱きすくめる松王丸。観客は「寺子屋」の結末を知っているだけに、この家庭悲劇に、心を奪われてしまった。

幕切れは、小太郎と松王丸が寄り添い、六字の幡を持ち、両脇に千代と御台所が悲嘆にくれながら、松王丸の見得で幕である。よく決まっていた。

全体を通して、二人の名題俳優(又之助と京妙)は、さすがの演技である。この調子で、経験を積んでいけば、大歌舞伎でも、貴重な脇役として活躍できるだろう。二人の名題下(光紀、梅之)もいい勉強になったと思う。

そしてこういった場を提供できるのが小芝居の意義である。これは決して無視できない。今後も、こういった試みが盛んになることを願ってやまない。
(於国立文楽劇場、2005年9月1日所見、9月7日執筆)

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