今回紹介するのは、2005年6月の公文協巡業歌舞伎鑑賞教室の鑑賞ノートです。(文中、明らかな誤りは訂正しました)。
私の歌舞伎初体験
最近、歌舞伎にすっかりハマッてしまった。きっかけは、たまたまNHKの「劇場への招待」という番組で、「実盛物語」を見たときに、菊五郎の演じる斎藤別当実盛のあまりに颯爽とした姿に、舌を巻いたことにある。いやはや、とにかくもう、「颯爽」としか言い様が無い素晴らしさである。
ちょうど同じ頃、岩波書店から、戸板康二『歌舞伎への招待』、『続歌舞伎への招待』が文庫化されたので、すぐにこれも読んでみた。なるほど、歌舞伎とはこの様に観るものなのかと、眼から鱗が落ちた。爾来、寝ても覚めても歌舞伎のことばかり考えるのようになってしまい、歌舞伎関連の書物や映像を貪るように観るようになった。我ながら滑稽なことである。どうやら歌舞伎には中毒性があるらしい。
ともかく、こうなってしまえば、もう映像や書物では我慢ができない。実際に劇場に行って、鑑賞したいと思ったのである。かといって、いきなり歌舞伎座や南座にいくのは気が引ける。経済的にも苦しいところだ。かくして、まずは関西巡演の「歌舞伎鑑賞教室」からはじめることにした。
ところで、芝居見物というのは不思議なもので、数日前から気持ちが浮ついてしようがない。会う人会う人みなに
「今度、歌舞伎を観に行くんですよ」
と、つい吹聴してしまうのだから、可笑しなものである。すると、
「まるで江戸時代の人間だな(笑)」
とは、わが師匠K氏の軽いツッコミ。いやはや、まったくその通りで、なんとなく近世人の心持ちが実感できたのである。
さて、肝心の舞台だが、まずは上村吉弥の「鷺娘」。ケレン味の強い変化舞踊だけに、歌舞伎初心者も多い鑑賞教室にはうってつけの演目だろう。実際に観客にも大受け。吉弥は、さすが門閥外から出て、実力で名跡を得た人だけに、形も決まっており、鷺の精の所作、汐汲みの手踊り、傘尽くしの踊りと、実に結構であった。終盤、娘が地獄の責苦を受けるところなどは、完全に観客を魅了している。幕切れも、実に絵になっていた。
とにかく、おどりなどというものは、映像なんぞで幾ら観てもその良さは分らないと思う。実際、私もそれまで、おどりというものの良さがあまり理解できなかった。だが、この日、私は確かに舞台上に舞う、一羽の鷺を観たのである。こういう感覚は、なかなか言語では表しにくいものだと思う。
次は「歌舞伎のみかた」と題する解説。案内役は中村又之助。地元の子供を舞台に上げて道具を体験させたり、鳴り物の意味を説明するなど、いい試みである。また、次にやる「野崎村」の道具に関して、包丁が本物である点を一々言うなどは、見せ場の一つである「膾作り」への注目喚起であって、実に親切だ。解説の最後に、「(登場人物が)山道を歩くときに振袖を引きずるのはおかしい、というようなことは、歌舞伎はあくまで様式美を追求した劇ですので、考えないで下さい」と、きっぱりと変痴気論を戒めるあたりは、さすが斯界の御師匠番・中村又五郎の門下だけあって、好感が持てた。
さて、いよいよ「野崎村」である。我當の久作は、見事の一言に尽きる。上方独特の口跡、所作と、申し分ない。とくに久松、お染への意見事は、子を想い、家を想い、また世間への配慮をも忘れない実直な庶民の心情がほとばしる見事なものであった。こういう誠実味こそ、我當の最大の持ち味である。こういった魅力は、もはや技量の問題ではなく、片岡我當という人間が持つ魅力が、芸の上に滲み出ているといえる。その上、今回の公演地である岸和田という土地は、今でも年寄りの意見を若者がよく聞く風があるところなので、久作の意見事は、実にリアルに観客に受け入れられていた。
吉弥のお光は、いかにも在所育ちらしい純朴さで、ややがさつな所があるように感じられる演技であったが、これも和泉の国ということを考えれば、かえって自然である。見せ場である膾作りも無難に演じ、「うれしかったは、たった半刻」のセリフもよく決まっていた。
また、中村京妙のお染との鞘当ても、滑稽味があって宜しい。こういう滑稽味は、上方の味である。京妙のお染は、さすがは京屋一門だけあって、様になっている。クドキでの袖振りも、充分実力を感じさせた。
片岡進之介の久松は、さすがは松嶋屋の御曹司だけあって、もと侍の遺児という久松の気品を、自然に演じていた。また、後家お常(片岡千次郎)が家にあがった後に、その草履をとって、そっと揃えるところなど、主家を想う性根が自然と出て、結構だと思う。
だが、全体的に久松の印象は弱い。だから、最後に駕籠で大坂に帰るというクライマックスの場面、駕籠かきが裸になって汗を拭く所作をするところで、それに対する悪受けに、負けてしまうのである。本来なら、ここは駕籠かきの暢気さを背景にして、久松の愛惜の情をコントラストとして際立たせるべき所ではないか。
恐らく進之介の問題は、二枚目を真面目に演じすぎることにあると思う。というのも、この久松という役、基本的には若衆の役柄なのだけれど、二枚目でもある。つまり奉公先で、その娘お染と深い仲になっておきながら、在所に返されれば、今度は幼馴染のお光とすぐに祝言を挙げることに同意する。そこにお染が押し掛けてくれば、またそれに惹かれてしまうというのだから、やはりどこか意志薄弱な、第三者から見れば何とも滑稽な、それでいて同情を誘うような性格ではないか。
すると、昔から上方には「二枚目は三枚目の心持ちでつとめよ」という口伝があるように、こういう性格を演じるということは、やはりどこかに一種の喜劇性が必要である。そして、こういう喜劇性こそ和事の神髄であることをしっかりと踏まえることが、大事だと思う。いずれにしろ、今後の上方歌舞伎の中核を担って欲しい役者だけに、進之介には、いっそうの精進を期待したい。
片岡當十郎の手代小助は、いかにも狡猾そうで、憎々しいところがよく出ていた。
クライマックスは、舞台を反転させての、別れの場面であるが、今回の公演の目玉は、なんと言っても両花道である。近年は興行の面から、大劇場では段々と難しくなっている仮花道の設置も、地方公演では融通が利くのだ。田舎暮らしにも、それなりの福がある。実際、両花道を使っての演出は、効果抜群である。本花道だけ使っての演出では、久松の駕籠は上手に引っ込むかたちになるので、どうしても距離の面で、本花道を行くお染の船とのバランスを欠いてしまう。だが両花道を使えば、駕籠と船が平行して進み、舞台が立体的になる。こういう演出は、額縁的視点を常識とする近代劇には無い、歌舞伎独自の魅力だ。
やがて、両花道の駕籠と船が揚幕に引っ込むと、自然、観衆の視点は舞台の久作、お光に注がれる。ここで、それまで遠景としてあった二人の姿が、一気にクローズアップされるような感覚になる点も、両花道の効果であろう。それだけに、幕切れの、お光が久作にすがりついて泣く場面(これは六世菊五郎型)は、愛惜の情溢るるばかりで、観衆を魅了してやまない。
今回の公演をとおして印象に残ったのは、なんといっても我當の力量だが、これはいわばあたり前のことであろう。それだけに、上村吉弥の充実ぶりが印象的。この人は、これからますます人気が出てくるのではないか。ことに、上方歌舞伎再興の気運が高まる中、貴重な役者になる可能性があると思う。同じく、進之介にも期待したい。清潔感のある、現代的な容姿の持ち主だけに、松嶋屋のホープとして、今後の飛躍を待ちたい。
(於岸和田市立波切ホール、2005年6月4日所見、7月5日執筆)
注:文中に登場する中村又五郎は、2009年に亡くなった二代目中村又五郎