2016年5月13日

むかし見た芝居・番外編―NHK教育「芸術劇場」「芸能花舞台」の思い出

東京には歌舞伎を上演する劇場が多く、それこそ毎月でも芝居を密頃ができます。ところが私のような地方在住者はそうはないかい。そんな地方在住の歌舞伎愛好家にとって心強い味方がNHK教育の「芸術劇場」や「芸能花舞台」といった番組でした。歌舞伎にいちばん熱中していた2000年代初め、それこそテレビで見た芝居の印象もノートを書いていました。思い出のある三つの芝居の観劇ノートです。

左團次の目じり―高島屋三代共演『新版色相方』


市川左團次、男女蔵、男寅の祖父親子三代共演の「新版色相方」は、なんとも言えないほのぼのとした舞台だった。

左團次の駕籠かき次郎作実は石川五右衛門、男女蔵の駕籠かき与四郎実は真柴久吉は、さすが親子だけあって、息の合った踊りっぷりだ。特に住吉踊りの所作での呼吸の合い具合は、見ていて気持ちが良かった。そして、男寅の禿ゆかりは、はたしてこれがあの左團次の孫かと思うほどの可愛らしさ。ただ、声はまだ男の子の声だ。

とにかく、男寅は懸命に踊ろうとしている。当然、出来はまだまだ。だから、なかなか決まらない。だが、それでも懸命に振りを決めようとしている。それがあまりに健気なので、ますます、可愛く感じるのである。

それを横で見ている左團次の目じりは、終始、下がりっぱなし。だから、石川五右衛門にしては、なんとも迫力不足で、大泥棒というより、すっかり一人の好々爺の顔になってしまう。だが、それは見ていて、かえって好感が持てた。

とにかく、高島屋の今を寿ぐ、そんな、見ているほうも、すっかり好い気分にさせる舞台だった。
(NHK教育『芸能花舞台』再放送、2005年7月9日所見、7月9日執筆)

この傑作を見よ―『関の扉』(出演:吉右衛門、富十郎、魁春、福助)


東京在住なら、毎月歌舞伎座に通うなどといった贅沢も出来ようが、私のような田舎暮らしの者にとっては、なかなか直接舞台を見るということが出来ない。そんな田舎者の強い味方がNHK教育の「芸術劇場」という番組。なにしろ、家に居ながら、一等席で歌舞伎見物できるのだから(所詮テレビと言う莫れ)。

さて、今回見たのは昨年11月の歌舞伎座公演『積恋雪関扉』であるのだが、はじめに一言、実に傑作であった。まず富十郎の宗貞が素晴らしい。風姿は言うに及ばず、何よりその体の動きが上手い。一挙手一投足が、じつに滑らかで、そこに落魄した帝の寵臣の品位、大きさが滲み出ており、まさに圧倒する出来だった。

吉右衛門の関守関兵衛実は大伴黒主も素晴らしい。この関兵衛というは、姿は山樵で、しかし本性は天下を狙う謀反人、それでいて性格はどこか憎めないところがあるなど、実に難しい役である。つまり、大きく、豪快で、それでいて知的に、しかも気持ちよい人物として演じなければならないわけであるから、厄介である。そいう人物を、吉右衛門は実に良く踊り、演じている。豪快で、快活で、気持ちのいい振りである。また、五尺手拭と煙管を持っての見得は見事の一言。錦絵の如くであった。

そして魁春の小町姫。これがまた見事。姫君の気品が、体のすみずみから匂い立つようで、その指先まで気持ちの入った振りである。

この三人が揃っての手踊りであるから、素晴らしくないわけが無い。実に息の合った、見事な踊りであった。これほど呼吸が合った、寸分の狂いもない踊りを、私は今まで見たことがない。それほどの出来である。

この三人の後から登場して、ワリを食ったのは福助の墨染。決して悪いわけではなく、色気も充分、風姿も申し分ないのだが、どこか印象を弱くしてしまった。ただ、これは福助自身のせいではないだろう。

いずれにしても、この「関の扉」、近年稀に見る傑作であった。
(NHK教育「芸術劇場」、2005年6月26日所見、7月12日執筆)

「型」の妙―『俊寛』(出演:松本幸四郎・市川段四郎 他)


近ごろ、歌舞伎鑑賞において「型」に注目するファンが少なくなっているそうである。もちろん、その筋の玄人は、充分注目しているのだが、一般の、特に若いファンにとっては、「型」の理解が歌舞伎鑑賞の基本中の基本であることに注意を払わない傾向があるのは、事実だろう。かく言う私も、「型」の研究は、近ごろ手をつけたばかりなのだから、赤面するしかない。

しかし、やはり歌舞伎は「型」である。これがわかれば、鑑賞は、何倍も楽しくなるのだと思う。その意味で、今回の「芸術劇場」で放映された「俊寛」は、「型」の妙を十分楽しませてくれる舞台であったた。

「俊寛」といえば、初代吉右衛門が当り役にして以来、基本的には「吉右衛門型」で上演されることが多いが、今回の舞台もやはり吉右衛門型である。だから、俊寛の出の後、成経・康頼は二人連れだって花道からの出になる。

成経の祝言の話があって、千鳥の出になり、いよいよ祝言であるが、ここでも俊寛が、松の小枝をもっての舞になる。そして、よろけて、いかにも寂しげな笑いになる。遠見の船の後、船つきも上手である。完全な吉右衛門型である。

さて、幸四郎の俊寛は、その落魄ぶり、ひ弱さ、いかにも飯もまともに食べていない俊寛の風が出ていて、見事。口跡も明瞭で、この人の芝居の上手さがよく出ていた。見せ場である松の小枝を持っての舞とよろける様も、いかにも寂しげで、上々である。

秀太郎の成経も実力充分。二枚目の風が良かった。特に千鳥との祝言を告げる際に、顔を赤らめて照れるしぐさが絶品で、何ともいえない色気があった。

さらに好感を持ったのは、東蔵の康頼だ。俊寛、成経が流罪という身の上に、どこか打ちひしがれた風情を見せている中で、東蔵の康頼だけは、なぜか元気がある。悪くいえば能天気、よくいえば逞しいということなのだが、平家物語などを読むと、この康頼という人物、さすが宮廷クーデターの首謀者だけあって。こういう逞しさはリアルだと思ったのである。

一方、魁春の千鳥は、悪くは無いのだが、個人的には不満があった。この人の持ち味は、やはりどこか淫靡さを漂わせる色気だと思う。それだけに千鳥という純真素朴な海女は、やや仁が違うような気がする。

さて、船が着いて瀬尾太郎の出になるが、段四郎の瀬尾は、まずその姿が立派である。いかにも敵役らしい憎々しさ、また野太い声が決まっている。また、この瀬尾という役は、理屈をいうのが持ち味だが、その理屈が、いかにも杓子定規で、それが却って憎らしさ百倍である。俊寛とのやりとりも、押して押しまくっているのである。

そこに梅玉の丹左衛門の出になるのだが、これが爽やかな男ぶり。この人の持ち味である。俊寛に切りつけられた瀬尾が、「なぜ助太刀してくれないのか」と哀願するところで、今度は丹左衛門が杓子定規を逆手にとって、それを拒絶するところなどは、下手をすると嫌らしい感じになるところを、いかにも爽やかに言ってみせるところに、この人の柄が出ていた。

さて、注目すべきは、その後の俊寛と瀬尾の立ち回りである。通常、吉右衛門型では、俊寛は瀬尾の太刀を奪って切りつけ、脇差の瀬尾との立ち回りになるのだが、今回は逆だった。

つまり、俊寛が脇差を奪って切りつけ、瀬尾は太刀で応戦するのである。これは「段四郎型」だ。なるほど、いろいろ意見があると思うが、私はこの方が好きである。なにより、俊寛の弱々しさが際立つし、脇差を持った俊寛と太刀の瀬尾の方が、絵になる。また、脇差しか持っていないから俊寛は防戦一方になって、千鳥が助けに入るという流れも自然になるのである。

そして、見せ場の「関羽見得」。これも上々であった。

船が出てからは再び吉右衛門型である。ここからは幸四郎の独壇場だ。凡夫心が捨てきれない俊寛の身もだえ。岩をよじ登り、木の枝にすがりつくと、その枝がポッキリと折れる。幸四郎の役者としての底力が、よく出ていた。幕切れの表現も申し分なかった。

全体を通して、完成度の高い舞台であったと思う。その秘訣は、吉右衛門型という非常に完成度の高い演出を基本にしながら、一部に段四郎型を導入するという工夫によって成り立っている。出演者たちの研究の成果だろう。そしてこういった「型」の妙をみせる舞台を、もっと見たいと思ったのが、今回の素直な感想であった。
(NHK教育「芸術劇場」、2005年7月31日所見、8月30日執筆)

もっと肚(ハラ)を!―『四の切』(出演:市川右近、段治郎、笑也、他)


10月30日放送のNHK「芸術劇場」は、7月の国立劇場鑑賞教室から澤瀉屋一門による『義経千本桜』から「河連法眼館」すなわち「四の切」である。

右近の佐藤忠信と源九郎狐の二役、段治郎の義経、笑也の静御前という配役で、宙乗りまであるというので、そうとう楽しみにしていたのだが、視聴して、満足半分、不満半分という印象だった。

まず不満から書こう。

とにかく役者の演技が不満だ。段治郎の義経は、ほとんど棒立ちで貴公子然とした気品がまるで感じられない。忠信が登場してから、いきなり喧嘩ごしで詮議するところは、貴公子の気ままさという解釈なのだろうが、それが動き、台詞の中で伝わってこない。

笑也の静御前も同様で、型をなぞるだけで、いっこうに肚が伝わらない。ことに狐忠信が登場してからの詮議で、静の不審、恐怖といった細かな心理の変化が表現できていない。

ようするに二人とも肚が薄いのである。あるいは肚と型の間にある連関が整理できていないのだろう。

一方、右近の忠信は、口跡が拙い。台詞がくぐもっていて耳障りだ。そして狐忠信に替わっては、とにかく台詞回しがクサい。確かに狐忠信の台詞は「中性で」という六代目菊五郎以来の口伝があり、それに従っての演技なのだが、あまりにナヨナヨしすぎて、不自然である。私はどちらかというと、クサい演技は嫌いではないのだが、限度があろう。天下の国立劇場で(鑑賞教室とはいえ)こんな小芝居じみた演技をしていては駄目だ。まして、右近ら澤瀉屋一門は、とうにこういう小芝居的演技から足を洗うポジションにいるはずではないか。

なぜこういうことになるのか。それはやはり肚が薄いからである。例えば狐忠信の台詞を中性で言うのは、そもそも「人にあらざる畜生の情」という極めて難しいテーマがあるからである。その難しい心理を肚とした結果、「中性で」という型になるのである。それは単純に女性的に演じるということではないはずである。その辺の研究をもっとして欲しい。

右近、段治郎、笑也、三者三様に「もっと肚を!」というのが共通した印象だ。寿猿の河連法眼、延夫の妻飛鳥は、いかにも落ち着いたベテラン脇役の味だ。台詞も明瞭で良い。

逆に満足したのは演出面だ。ここは猿之助型のケレン味たっぷりの演出で大変楽しい。源九郎狐の早替り、欄干渡り、上手屋台の窓から本物の忠信登場と、これでもかというサービス満点の演出だ。そして終盤、荒法師の登場も通常の三人ではなく、三人二組の計六人。これが大立ち回りを演じるのだから、楽しくないはずがない。最後は源九郎狐が宙乗りでの狐六法、そこに吉野名物ということか、桜吹雪まで吹かせる芸の細かさ。

所詮ケレンと馬鹿にすること莫れ。これこそ歌舞伎の醍醐味の一つである。この楽しさだけは、大満足の舞台であった。
(NHK教育「芸術劇場」、2005年10月30日所見、11月4日)

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