私は市川海老蔵が大好きです。海老蔵に関しては、もうなにをやっても面白く感じてしまうというほど。そういう意味では、海老蔵信者の一人なわけです。今回紹介するのは、その海老蔵の十一代目襲名巡業の芝居です。おそらく生で海老蔵の芝居を見たのは、このときが初めてだったように思います。一部ダメ出しもしているのですが、その欠点も最近では解消され、本当にいい役者になりました。また、本来は巡業に参加するはずだった團十郎が病気休演となり、海老蔵一人舞台だったのも、余計に応援しなければという思いにかられたことを思いだします。そして、團十郎がいまはもういないというのも、いま読みかえしてみると改めて胸が痛みました。
二つの「若さ」
團十郎の病気休養という衝撃的なニュースで幕を開けることになってしまった十一代目海老蔵襲名の公文協巡業西コース。大事な披露興行を休まざるを得なくなった團十郎からすれば、まさに痛恨事であろう。殊に市川宗家として、人一倍責任感の強い彼のことであるから、その心中、察するに余りある。いずれにしても、一日も早い快復と復帰を望み、いっそうの御自愛を願いたい。
さてこの度、海老蔵襲名披露狂言に選ばれたのは、『源平布引滝』から「実盛物語」である。この選択は、なかなかに興味深い。というのも、新・海老蔵の新之助時代からのキャッチフレーズが「お祖父ちゃんにソックリ」だった。つまり、元祖「海老様ブーム」を巻き起こした九代目海老蔵、即ち十一代目團十郎の跡を当人が、そしてファンもハッキリと意識していた。
言わずもがなの事だが、市川宗家には歌舞伎十八番という「家の芸」がある。これを守り通すことこそが、いつの時代も團十郎そして海老蔵の名を襲いだ者の使命だ。そんな中で、九代目海老蔵(十一代目團十郎)という人は、十五代目羽左衛門の再来といわれ、その爽やかな男っぷりから、「伊勢音頭」の福岡貢や「落人」の勘平といった二枚目の役を得意にした。つまり、従来の成田屋系の「荒事」の芸に加えて、いわゆる音羽屋系の二枚目あるいは「生締め」の芸をレパートリーに加えることに成功したのが、九代目海老蔵である。その意味で、九代目海老蔵の跡を追う当代海老蔵が、「生締め」の代表である実盛に挑むのは、至極当然であり、また意味深いものがあると思う。
さてその「実盛物語」である。海老蔵の実盛は、まずその姿が素晴らしい。これは特筆に価する。というのも、そもそもこの「実盛物語」という狂言は、かつて三木竹二が冗談めかして「情義めちゃめちゃ」と評したように、狂言自体を見れば、相当に無理のある話である。そんな狂言が、今日まで盛んに上演されるのは、まずもって実盛の姿を味わうことを第一にした狂言だからである。だから、この芝居では、とにかく実盛を演じる役者の姿が良くないとどうにもならない。ある意味では、それが全ての狂言であるとさえいえる。その意味では、海老蔵の実盛は合格点以上だ。実に颯爽としていて、力みの無い、余裕のある実盛であった。また、見せ場の物語は、実に力強い。ここは若さ溢れる実盛だ。
もう一つ面白かったのが、所々で実盛が世話にくだける。例えば葵御前が産気づいて上手障子に引っ込み御産となるところで、太郎吉が障子の中を覗き込もうとする。実盛がそれを制してなだめる所だ。これも悪くないと思った。
さらに型の上でも工夫が見える。「実盛物語」には派手で颯爽とした「音羽屋型」と渋い「三河屋型」があるが、今回は基本は音羽屋型なのだが、所々に三河屋型が採用されている。だから、物語の前には正面後の障子が開けられ、琵琶湖の湖水が見えるし、実盛自ら小万の腕を繋ぐことをせず、それを九郎助にやらせる。こういう渋い演出を導入することで、海老蔵の実盛の「若さ」がマイナスに作用することを最小限に食い止めているといえよう。また、四代目および七代目市川團蔵以来の「三河屋型」を尊重するところに、市川宗家惣領の心意気を見たような気がする(ちなみに、以前見た菊五郎の実盛は純然たる音羽屋型だった。これも音羽屋当主として立派な態度である)。
幕切れで馬に乗って、綿繰り馬の太郎吉との見得も見事。実に絵になっていた(ただし、花道の引っ込みは、揚幕の高さが足りないため無し)。
以上が海老蔵のいいところだ。逆に気になったのが、その口跡である。これは以前から指摘されていることだが、ときおり高音が鼻に抜けて聞き苦しい。好き嫌いもあるだろうが、どうも私はこれが好きになれないのだ。もっとも、これは生来のものであるからどうすることもできないのかもしれない。そういった点を除けば、充分魅力的な実盛だったと思う。やはり海老蔵の「若さ」が魅力一杯の舞台だった。
そして「若さ」という意味では、右之助、家橘の二人のベテラン女形が素晴らしかった。特に右之助の葵御前は、その気品、若々しさ、これも特筆に価する。特に御台所の拵えに戻ってからの姿の良さには感心した。
家橘の小万も同様だ。この小万という役はセリフも少なく、あまりしどころの無い役でありながら、物語全体に影響を与える重要な役だ。そして家橘の小万は、少ないセリフの中で、主家への忠義、家族への愛情を充分に表現していた。
市蔵の瀬尾は、市蔵襲名披露以来だが、そのときに較べて明らかに線が太くなった。また、口跡が明瞭なのもこの人の持ち味だ。「胸に思案が、無きゃ適わぬ」の苦笑も、様になっている。「もどり」になってからの述懐も良い。そして落ち入りでの「平馬返り」、見事の一言。これだけの運動神経を持った役者は、斯界でもそう多くはないと思う。
升寿の九郎助女房小よし、新次改め新蔵の九郎助という配役は巡業ならではだが、升寿は型に嵌った落ち着いた演技だ。新次改め新蔵、歴史のある名跡を継いだ。まずはおめでとう。益々の精進と活躍を祈る。仁惣太は新七。
幕間後の「口上」は、やはり座頭不在で寂しい。繰り返すが、團十郎の一日も早い快復を願う。
「お祭」は、團十郎に代わって海老蔵の鳶頭成吉。急な代役でさぞ大変だろと思う。代わりに市蔵が鳶を、右之助と家橘が芸者を付き合って脇を固めたのが嬉しかった。
ここでも海老蔵の姿の良さが目立った。「待ってました」の掛声に「待っていた?待っていたとはありがてい」と返すところも、客をいじる余裕を見せて、なかなか頼もしい。ただし、鳶頭としての貫禄はまだまだ。どちらかというと小頭くらいか。しかし、せっかくの目出度い席だ。あまり言うまい。肝心の踊りは、勢いがあった。市蔵の鳶は、もう少し踊りにメリハリが欲しい。
ここでも御手柄は右之助、家橘の芸者である。やはり若々しくて、粋でいなせな江戸前の芸者の風がよく出ていた。狐拳の踊りもよく息が合っている。
最後は客席を巻き込んでの手締めで幕。座頭不在の中で、一門の結束を発揮した、いい舞台だったと思う。
全体を通して、海老蔵の「若さ」の魅力に溢れる公演だった。やはり、当代海老蔵には無限の可能性を感じる。何より役者としての「華」がある。これは得難い才能だ。そして右之助、家橘の二人のベテラン女形の円熟した「若さ」も印象的だ。こいう二つの「若さ」を同時に楽しめるところにも、歌舞伎という芸術がもつ奥深さがある。そんなことを考えさせられた舞台だった。
(於岸和田市立波切ホール、2005年9月22日所見、10月7日執筆)