2019年12月13日

中村鴈治郎讃



大阪の歌舞伎ファンにとっては、やはり中村鴈治郎という名前は特別な響きを持ちます。現在は四代目が活躍中ですが、かつて三代目が坂田藤十郎を襲名したときに一時的にですが鴈治郎の名前が番付から消えたことがあります。やはりそれは寂しいことでした。その時の気持ちを書いた文章が旧ブログに残っていたので、加筆して転載しておきます。

中村鴈治郎讃


南海電鉄難波駅を出ると、すぐ眼前に「南海通り」という筋がある。それを入ってすぐ左手に、小さな横丁がある。横丁に入ると左が精華小学校という名門公立小学校があったのだが、今はもう廃校になって、校舎だけが昔の姿を残している(その後、校舎も取り壊されて家電量販店が入るビルが建った)。

さて、その精華小学校跡の向かいに、ちょっとした割烹料理屋がある。といっても、とくに気取った店ではなく、ごくごく大衆的な、それこそ呼び込みをしているような割烹料理屋である。ただ、その店の名が面白い。その名もずばり「河庄」。しかも店の看板には堂々と「イ菱」の紋が描かれているのだから歌舞伎ファンなら、「ああ、なるほど」と思ってしまう。ようするに、まったく中村鴈治郎という役者のイメージに依拠した命名なのである。

この割烹料理「河庄」と、成駒屋が実際にいかなる関係を有するのか、まったく知らない。それでも、店の名を「河庄」として、堂々と「イ菱」の紋を掲げるところに、いかに大阪人が中村鴈治郎という役者の存在を誇らしく思い、また信頼しているのかということをまざまざと見せつけるような光景だと思う。

そういえば、この横丁を抜けると、そこには以前、大阪歌舞伎座があり(今は家電量販店になっている)、実際に多くの歌舞伎役者この横丁を通ったことから、この横丁には通称があった。その名は「鴈治郎横丁」である。やはり、大阪人は歌舞伎を鴈治郎で代表させることを忘れていない。

なぜこういうことを書くのかといえば、中村鴈治郎という名前によせる大阪人の感情を、私は確認したいと思うからだ。

古来、大阪という場所は、多くの先進的文化を発信してきた。近松しかり、西鶴しかり。歌舞伎も例外ではない。だが、徳川時代以来、江戸が政治の中心から経済の中心となり、やがて文化の中心となるにつれて、大阪の文化的地位は、徐々に低下していった。

この傾向は、近代以降、江戸が東京となってからは、いっそう強まっていった。大阪は文化的周縁に追い込まれたのである。

そんな中で、大阪を代表して東京という中心に敢然と挑んだものが、三つあると思う。一つは将棋の坂田三吉、もう一つは阪神タイガース。そして、中村鴈治郎である。

初代鴈治郎は、「ほっかぶりの中に日本一の顔」と賞されたが、この「日本一」という言葉を心底信じようとしたのが、大阪人である。大阪人にとっては、鴈治郎こそ、大阪が誇る「日本一」だったのだと思う。
 
鴈治郎自身も、意識的に「日本一」であろうとした。道具にいちいち「イ菱」の紋をいれて自己主張するなどといったあざといことを堂々としたのが鴈治郎である。それは東京の者から見れば「えげつない」ことのように見えるかもしれない。だが、こういう「えげつなさ」こそ、東京という場所が持つスノビズムにたいする批評となることを忘れてはいけない。

大阪名物通天閣の真下に、不出世の名人・坂田三吉の顕彰碑がある。そこには、坂田名人が満天下に示した大阪人の特質として、「土根性」という言葉が刻まれている。

この「土根性」こそ、あの「えげつなさ」の背後にあるものである。そして、折口信夫博士が「土着性」と称したものである(折口信夫『かぶき讃』参照)。

江戸の歌舞伎は、ことごとくその様式が洗練され、いわば工芸品のような風姿を持っている。対するに、上方の歌舞伎はリアルだと言われる。だが、このリアルさというのは、ようするにこの「土根性」あるいは「土着性」が芸に上に反映される結果であろう。それは、いわば民芸品の味わいである。


二代目扇雀、すなわち今の鴈治郎は、父・二代目鴈治郎と共演した「曽根崎心中」でお初をやったとき、外股で駆ける型を見せて、観客の度肝を抜いたという。それまで女形は、内股で歩くのが普通だったからだ。

これをお初の切羽詰った気持ちを表現した「写実」だと考えるのは、半分正解で、半分不正解だと思う。なぜなら、その後ろには、単なる「写実」を超えたなにものかがあったように思うからである。

当時、上方歌舞伎は不振を極めていた。切羽詰っていたのは、お初だけではない。いわば、上方歌舞伎そのものが切羽詰っていたのである。そんなときに必要とされるのは、ただひたすらに前へ駆けていくことだけである。それこそ、格好などは打ち捨てて、ただひたすらに前に出ること。それは「えげつない」ことかもしれない。だが、それを堂々とやってしまうには、「土根性」だけが要求される。

扇雀は、それをやってのけた。あの扇雀のお初がやった外股の型は、まさにそういった「えげつない」「土根性」溢れる演技だったのではないか。そして、まさにここからあの「扇雀ブーム」が始まり、扇雀―三代目鴈治郎―の、上方歌舞伎再興の火の手が揚がったのである。

この度、鴈治郎が四代目坂田藤十郎を襲名する。上方歌舞伎再興に執念を燃やしてきた彼からすれば、まさにその集大成の始まりだろう。二百年以上も前に途絶えた大名跡を堂々と襲名するなどは、ことに「家筋」を重視する江戸歌舞伎からすれば、まさに「えげつない」所業に見えるかもしれない。だが、こういった実力主義こそ、上方歌舞伎の本領である。そしてそれを支えているのが「土根性」である。

だが、私はこの襲名に一抹の寂しさを感じている。なぜなら、藤十郎は確かに上方歌舞伎の始祖たる大名跡だが、それはどちらかというと京都の名前である。つまり、大阪から鴈治郎の名が無くなることを意味するのだ。やはりそれは寂しい。

これからしばらく、大阪に鴈治郎はいなくなる。そんな今だからこそ、私は、鴈治郎という名前に寄せる大阪人の誇り、信頼を確認したいと思う。そして、いつの日か、再び鴈治郎という名前が受け継がれる日を待ちたい。

なぜなら、大阪人にとっては、鴈治郎こそが「日本一」なのだから。
(2005年7月22日執筆)

あれから10年以上が経ちましたが、いまでは四代目鴈治郎が立派に活躍中です。むかし書いた文章を読んで、久しぶりに鴈治郎の芝居が観たいと強く思ったのでした。

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