いよいよ2020年5月に十一代目市川海老蔵が十三代目として市川團十郎を襲名する。ここ数年、いろいろなことがあった成田屋ですが、ひとつの区切りとなる慶事でしょう。十三代目團十郎にはますます頑張って欲しいと贔屓の1人として強く願わずにはいられません。それと同時に、いまは亡き十二代目團十郎のことを思い出し、本棚から『團十郎の歌舞伎案内』を引っ張り出して眺めてしましました。十二代目團十郎は梨園でも屈指の知性派でした。彼が持つリベラルアーツで忘れられない思い出があります。晩年、入院中にもかかわらず自分のウェブサイトで「入院日記」というエッセイを律儀に発表していました。以下の文章は、2005年に旧ブログに掲載したものに加筆したもです。
日本国憲法を読む團十郎
唐突だが、私は当代(十二代目)團十郎が好きである。そして、全ての歌舞伎ファンも当代團十郎が好きに違いないと勝手に確信している。いや、当代團十郎を悪く言う人は、所詮、本当の歌舞伎ファンでは無いとさえ言い切りたい。
周知のとおり、当代團十郎は梨園きっての苦労人である。成田屋宗家の御曹司に生まれながら(その出生においても、既に苦労の多い立場にあったが、それは言うまい)、若くして父を亡くし、叔父である先代松緑の後ろ楯で修行し、艱難辛苦、家の芸の継承に努め、今日の芸風を築いた。いや、単なる芸風ではない。その素晴らしい人格を作ったのである。
当代團十郎の芸は、その人格が滲み出るところに価値がある。例えば「勧進帳」。私はやはり当代團十郎の弁慶がいちばん好きだ。彼の弁慶は、主を思い、仲間を労わり、自らを顧みぬ弁慶だ。それは神々しい程である。特に花道に飛び六法で引っ込む前の一礼。これこそ彼の人格が全面的に発揮される瞬間である。
その團十郎が病に倒れて、もう幾月になる。だが、闘病中にもかかわらず、彼は公式Webサイトに「入院日記」と題する消息をこまめにファンに送ることを忘れない。まさに彼の人格が為せる業である。その「入院日記」を読んで、私は益々團十郎が大好きになったのである。
「入院日記19」に拠ると、團十郎は「選挙には必ず行っている」と言い、今回の総選挙もなんと病院内から投票したそうである。そして、入院中は読書に励み、ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて』を読んだそうである。梨園広しと言えども、ジョン・ダワーを読む歌舞伎役者は、團十郎ただ1人ではないか。だがそれ以上に感銘を受けたのは、その後に今度は「六法全書」を取り寄せ、日本国憲法を読んで、憲法問題を真面目に考えていることである。
「入院日記20」では、憲法九条について矢張り真面目に語っている。ここで團十郎は、憲法九条を「瓢箪から駒」と言う(つまり、やはり「九条」は得がたい「駒」なのだ)。そして、憲法の拡大解釈はいけないと言い、さらに「世界平和を高らかに謳い上げ、しかも、現実をはっきりと見据え、拡大解釈などせずに、崇高なる目標を達成できる日本国憲法を日本人の叡智を結集して作り上げ、私達が憲法の賛否を語り合える機会を是非作って欲しい」とまで言うのである。私は、ほとほと感服したのだ。
現行憲法の戦争放棄条項に対する「愛着と不満」、これはかなりのの日本人が普遍的に持つアンビバレントな感覚である。このアンビバレントな感覚が、いつも憲法問題を複雑にし、我々の口を重くするのであるが、團十郎もまた、この感覚を鋭敏に感じ取っている。だがそこで彼は歌舞伎役者であると同時に、1人の国民として真摯に読書し、考え、考え抜く中で人に語り掛けようとする。それも病床の中からである。
病と闘いながら、日本国憲法を読む團十郎。これこそまさに彼の人格が滲み出るエピソードである。私はそんな團十郎が大好きである。
今、團十郎は病と闘いながら、自らの生と死を見つめているに違いない。と同時に戦争と平和についても思いをめぐらしている。私はそんな團十郎の一日も早い快復を祈る。そして、この経験と思索を肚として、例えば團十郎型の「熊谷陣屋」などを見てみたい。そう真剣に思っている。
(2005年11月12日執筆)
十三代目團十郎には、ぜひこうした十二代目團十郎が持っていた知性も見習ってほしいと思うわずにはいられません。なぜなら、それは芸界どころか、現在の日本全体にとっても最も欠けているものだからです。