2015年6月10日
教養としての歌舞伎‐戸板康二『歌舞伎への招待』『歌舞伎の話』
戸板康二は、私の歌舞伎鑑賞の師匠です。といっても、もちろん会ったことはありません。書物を通して、こちらで勝手に私淑しているだけです。それほど歌舞伎への招待 (岩波現代文庫)と歌舞伎の話 (講談社学術文庫)には大きな影響を受けました。
そもそも、歌舞伎は伝統芸能ですから、それなりの作法や鑑賞の手引が必要だというのは事実。かつては三木竹二や杉贋阿弥、三宅周太郎の著作がそういった手引としての役割を果たしてきたのですが、私のような歌舞伎初心者にはこれらは少し高踏です。そんななか、戸板康二の著作が文庫化されているのは嬉しい限りです。
『歌舞伎への招待』(岩波現代文庫)は、「花道」「女方」「おどり」といった歌舞伎の基本タームを手掛かりに歌舞伎を「異邦人の鑑賞眼」で解説しており、続 歌舞伎への招待 (岩波現代文庫)は「梅王丸」から「切られ与三郎」まで代表的な歌舞伎の登場人物を名優たちの芸談を手掛かりに解説していて、両書とも単なる入門書ではなく、読めば読むほど行間に筆者の歌舞伎理解の奥深さと含蓄が感じられてくるありがたい本です。
一方、『歌舞伎の話』(講談社学術文庫)は、やや毛色が違います。これは「現代文化における歌舞伎の位置」という命題を追究したものですが、驚くべきことにここで説かれているのは一種の「歌舞伎滅亡論」なのです。つまり、本来歌舞伎とは役者が役の外形を作り上げ、それを観客が無条件に受け入れるという、いわば信仰に近い、役者と観客の結びつきによる美学であったものが、明治以降にはこうした条件が基本的に失われてしまったというのが筆者の見解なのです。
だとすると我々はもう近世人がそうしたように歌舞伎を見ることはできないことになります。それでも歌舞伎を見るということは、どのような意味があるのでしょうか。筆者はそれを娯楽であり、かつ「教養」だといいます。こういう姿勢は、今日のような教養無き時代には、実に清々しいと思う。そして、現代人が「教養」として歌舞伎を鑑賞する際の、最初の姿勢として「異邦人の鑑賞眼」を用意しているのだから、戸板康二の手練手管は、実に小憎らしいばかりの用意周到さだといえるのです。