大阪松竹座六月花形歌舞伎の狂言「湧昇水鯉滝」、通称「鯉つかみ」は、勝諺蔵・奈河三津助作「新舞台清水群参」が元になっています。ただ、オリジナルの脚本は散逸してしまい、現在の脚本は2013年に明治座で片岡愛之助が復活させたときに片岡我當監修・水口一夫脚本として書き直されたものです。残された断片を元によくつじつまを合わせており、なかなか上手い脚本に仕上がっているのですが、わからない点がひとつ。そもそも主人公である滝窓志賀之助とは何者なのでしょうか。劇中では、実は釣家本家の御曹司、清若丸と説明されますが、とってつけたような設定で説得力がありません。
そもそも鯉の精は、なぜ志賀之助に化けているのでしょうか。よく考えると、この設定がすでにおかしいのです。劇中では鯉の精が最初に美しい寺小姓、志賀之助として登場するのですから、鯉の精の化けた志賀之助の外形がオリジナルなのではないでしょうか。つまり何者かが、鯉の精の化けた志賀之助に、やはり化けて登場したと考えた方がすっきりする。では、本物の志賀之助の正体は何か。初めての登場場面を思いだせば、すぐに答えが出ます。本物の志賀之助は清水寺の本堂の中から登場する。つまり、清水寺の本尊の化身と考えるのが自然でしょう。清水寺の本尊は千手観音ですから、本物の志賀之助こそ観音菩薩の化身だと解釈できます。つまり、鯉の精の復讐の企みを知った観音菩薩が、鯉の精が扮した志賀之助に扮して、釣家の危機を救うというのが鯉つかみの主題です。
では、なぜ観音菩薩は釣家を助けるのか。それは物語の発端を思いだせばわかります。そもそも釣家が鯉の祟りを被ったのは、先祖である俵藤太秀郷が雨宝童子の大百足退治に助太刀し、結果として琵琶湖を大百足の毒血で穢してしまったからです。ということは、雨宝童子は俵家(釣家)に貸しがある。雨宝童子は天照大神の化身だと劇中で告白しています。そして、本地垂迹の考えでは、天照大神の本地仏は観音菩薩です。これで平仄が合います。そう考えると、大詰第一場「釣家下館の場」の最後、本物の志賀之助が登場するところで鯉の精に矢を射る描写は、序幕で俵藤太秀郷が大百足で矢を居って登場するところと同じ。これもきちんと平仄が合っています。
ようするに鯉つかみは、観音菩薩による俵家(釣家)への報恩譚なのです。また、志賀之助の正体が仏でなければ、鯉の精も立つ瀬がありません。そもそも鯉は何の落ち度もないのに大百足の毒血で穢されてしまった。それで俵家を恨むのは、逆恨みの気がないとはいえないまでも、ちょっと気の毒な立場です。その鯉の恨みを癒すのは、大慈大悲を本誓とする観音菩薩しかいない。鯉の精は、観音菩薩に討たれたからこそ成仏できるというわけです。
こう考えると、鯉つかみもまた観音信仰をベースとした本格的な狂言に思えてきました。あくまで素人解釈ですが、この説の是非、いかがでしょうか。